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目に見えない環境汚染時代を生き抜くために37

環境ジャーナリスト 佐藤恵里

◇散る桜 残る桜も 散る桜
◇知らざれる明治初期の歴史的建造物『松楓殿』


 皆さま、いよいよ新年度がスタートしましたが如何お過ごしでしょうか。いよいよ関東近県の桜も満開となり春の風物詩に心躍るひとときを迎えていま す。前回も桜の話題で始まりましたが、老父が「一生に一度は皇居の桜が見たい」と突然言いだし、付添った春季皇居乾通り一般公開の模様からお伝えします。 皇居には毎年新年一般参賀に参りますが、今年は仕事で伺うことができなかったので良い機会となりました。

 5月と11月には吹上御苑内の自然観察会が9年前より行われていますが、同じ頃、宮内庁の関係者に皇居をご案内頂いたことがあります。乾通りを通 り吹上御苑の一般人が入ることのできるぎりぎりのところまで参りましたが、祭祀が行われる神殿に向かう道の厳かな佇まいを今も忘れることができません。珍 しい真っ白な桜が満開で、地元さいたま市の盆栽村を凌ぐ見事な盆栽コレクションに溜息がもれました。

 江戸城の中心だった本丸・二の丸・三の丸は皇居東御苑にあり、皇居附属庭園として公開され年間百万人以上の入園者で賑わっています。今回一般公開される 乾通りは吹上御所や宮殿、宮内庁のある吹上御苑と皇居東御苑を隔てる蓮池濠沿いにあり、その北端の西桔橋から皇居東御苑に入ることができます。花冷えが続 き残念ながら桜は平均して三分咲き程度でしたが、皇居内の自然景観を堪能することができました。

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 江戸時代を生きた良寛和尚の辞世の句と言われる『散る桜 残る桜も 散る桜』は筆者の好きな俳句の一つですが、どのような人生であっても死を迎え るのは必定であり誰しも避けられないことを喩えています。人生も桜のようにはかないからこそ、将来を悲観したり過去を悔やんだりせず、今、この瞬間を生き 生きと生きよ、というエールなのかもしれません。『武士道』を著した新渡戸稲造は、その中で次のように対比しています。

 ヨーロッパ人は薔薇の花を愛好するが、われわれは違う。薔薇は桜の単純さをも
っていない。さらに薔薇は甘美な花の下に棘をかくしていて、あたかも、その生
命に強い執着をもち、死を嫌い恐れて、咲いたまま落ちるよりも、枝についたま
ま朽ちることを選ぶかのようである(中略)わが国の桜はその美の下に短剣も毒
も潜ませてはおらず、自然のままに散り、その色彩は少しも華麗ではなく、その
香りは淡くて、人を飽きさせない。

 1899年に著され翌年米国で出版された『武士道』は、それまでの未開で野蛮な日本人のイメージを大きく塗り替えました。今日となっては世界各国で日本 の武道に励む外国人の情景が当たり前となり、西洋人の価値観に大きな影響を与えた伝統を誇りに思うものです。明治時代の日本人には武士道精神が強く受け継 がれていましたが、今月のニューヨーク出張の折に、江戸〜明治〜大正時代を生きた一人のサムライの歴史に触れる機会がありました。

 ◇知らざれる明治初期の歴史的建造物『松楓殿』

 昨年12月に続き再びニューヨークに参りました。今回は日本ブランド育成プロジェクトの一環で石川県の企業チームのアドバイザーとして同行することに なったのですが、その過程で偶然石川県にゆかりある高峰譲吉博士のお話を聞く機会がありました。以前、高峰博士の医学分野の功績に関する資料を頂いたこと を思い出しましたが、同博士がいかに日米関係に寄与したかについては恥ずかしながら存じませんでした。石川県企業チームの皆さま曰く、地元でも教えられて いないとのこと。

 今回は、サムライと形容される高峰博士の知らざれる活躍について書き留めておきたいと思います。本稿の執筆にあたっては、ニューヨーク郊外にある 別荘地の森に佇む松楓殿(しょうふうでん)の管理責任者である山田英俊氏(ニューヨーク在住)による資料協力のもと、その歴史や荘厳な日本建築についてご 紹介いたします。また、NPO法人高峰譲吉博士研究会のウエブサイトも参照させて頂きました。

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 京都御所に建つ、かつての内裏の正殿である紫宸殿(ししんでん)や清涼殿の寝殿造りをモデルとした日本建築と庭園は、1904年(明治37年)の ルイジアナ・セントルイス世界万国博覧会で日本館のメインパビリオンとして建造されました。同万博は、日露戦争開戦前の戦費調達のために日本をアピールす る重要な外交舞台と位置づけられ、国力を挙げて伝統的な日本文化の美の象徴である本格的な回遊式の日本庭園にメインパビリオンや金閣寺、茶室、芝居小屋、 料亭等を建造するという力のいれようでした。

 会期中は約2千万人もの来場者で賑わいをみせた同万博ですが、出展した44カ国のパビリオンの中でも日本館は特に注目を集めました。伏見宮殿下、 松平正直男爵をはじめ、職人や芸術家など3百余人が渡米して訪問客をもてなしたほか、陶磁器や七宝といった匠の技に加え、ミキモトの真珠や醤油も披露され 話題となりました。先人たちの長年の努力によって日本製=高品質というブランドが定着したことを改めて感じさせられます。

 モデルとされた紫宸殿や清涼殿は11世紀に建てられましたが、現存するものは平安時代の建築様式を以て江戸末期に再建されたものです。1868年と翌年 に明治天皇が現在の皇居に行幸され東京に都の中心が移ることとなり、千年以上にわたる都の歴史を持つ京都や大阪の人々のショックはいかほどだったことで しょう。天皇陛下のお膝元で恵みを受けてこられた人々は活路を海外に見出だし始めたのかもしれません。

 同万博終了後、日露戦争の戦費調達で資金がなく解体すら事を欠いていた明治政府は、大きな功績を挙げた万博の使節団の一員であったアメリカ在住の 高峰博士にメインパビリオンを無償譲渡することにしました。高峰博士はこれを日米交流の象徴的舞台とすべく、巨費を投じてニューヨーク市から車で北東に2 時間程のところにある由緒ある広大な別荘地、メリーワルドに移築しました。そして、当時の枢密院顧問の大島圭介によって「松楓殿」と名づけられたのです。

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 さて、それでは、セントルイス万博で大きな功績を挙げた高峰譲吉博士とは一体どのような人物だったのでしょうか。化学者、高峰博士の功績について広く知 られるのは、1894年(明治27年)の消化酵素タカジアスターゼの開発と、1900年(明治33年)のアドレナリンの結晶化の成功です。牛の副腎ホルモ ン、アドレナリンの結晶化は、外科手術における患者の生存率を飛躍的に高めました。

 この他、日本初の人造肥料生産や日本の麹菌によるアルコール醸造法をウィスキー製造に応用した高峰式醸造法の発明など、実業家としても世界的な名声と巨 万の富をアメリカで手にします。日本人離れしているのは発明をいち早く権利化したことでしょうか。日本人は先陣を切ってもビジネスでは後手に回るケースが 数多く見受けられますが、明治時代にそんなことをやってのけた人がいたのか!とまず驚かされました。

 高峰博士は安政元年(1854年)に富山県高岡市に加賀藩典医である父と母の13人の兄妹の長男として誕生しました。翌年金沢市梅本町に移転し、加賀藩 の藩校明倫堂に学びました。11歳のときには既に才能を見いだされ加賀藩の抜擢により長崎で英語を学びました。14歳で京都の安達兵学塾や大阪の適塾で医 学を学び、16歳で大阪の舎密学校で分析術、七尾語学所で英語を学び、18歳で上京して工部大学校(現・東大工学部)に入学し、25歳のときに国費留学生 として英国に留学しました。

 注目すべきは教育体系が確立していない時期にもかかわらず、先進的且つ多彩な教育を受け続けて頭角を現したことでしょう。その後、29歳で帰国し農商務 省公務局で和紙製造や清酒醸造の改良指導を担当し、1884年(明治17年)30歳のときにニューオーリンズ万国産業博覧会に派遣されました。このときに 人生を変える大きな出来事がありました。アメリカ南部の名家出身のキャロライン・フィールズ・ヒッチと出会い婚約したのです。

 さらに、カリン酸石炭鉱石サンプルを持ち帰り人造肥料研究に着手しました。翌年には高橋是清の欧米視察に伴い特許局長を代行し、特許事業の基礎をつくり ました。この取組みが、後に高峰博士を実業家へと変身させるきっかけになったのでしょう。1887年(明治20年)には渋沢栄一らと東京人造肥料会社 (現・日産化学工業)を設立して技術長に就任し、再び渡米してキャロラインと結婚します。

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 翌年帰国して深川に新居を構え長男(譲吉2世)と次男の2人の息子をもうけました。1890年(明治23年)に高峰式元麹改良法で特許を取得し渡 米するも、ウィスキーのモルト業者からの迫害を受け肝臓病で重体になるなど苦難の時期を迎えます。1894年(明治27年)40歳のときに消化酵素タカジ アスターゼの抽出に成功。デトロイトの製薬企業、パーク・デービス社より強力消化剤として発売されました。

 この起死回生の偉業によって、一時は親戚から多額の借金をして妻の内職に助けられた高峰博士の運命は大きく開かれたのです。1897年(明治30年)に ニューヨークに高峰化学研究所を開設した2年後に日本で三共商店(現・第一三共)を設立。タカジアスターゼの日本での発売を開始しました。46歳のときに 牛の副腎からホルモンの結晶化にも成功しアドレナリンと命名します。

 それから4年後の1904年にセントルイス万博が開催されたのです。松楓殿は、その後、日米政財界や学会のリーダーたちが集う社交場となり、皇室から久 邇宮両殿下も訪れるなど輝かしい時代を迎えます。高峰博士が1922年(大正11年)に病に没したのを機に、妻キャロラインは松楓殿を手放すことになりま すが、その後の歴史を紐とく前に、日米交流や相互理解に寄与した功績をみてみましょう。

 高峰ファミリーが暮らしたマンハッタンの本宅には、アメリカの名門、名士たちが集い、ロックフェラー、モルガン、カーネギーなど当時の大財閥との交流も 深かったそうです。また、ニューヨークにおける日米交流の2大拠点とされる「日本クラブ」と「ジャパン・ソサエティ」を創立しました。在米邦人の地位向上 をはかり民間交流の場をつくられた高峰博士の理念は受け継がれ、今回久々にジャパン・ソサエティを訪問した折には311の復興を祈念した写真展が開催され ており、正面玄関のオノ・ヨーコさんのインスタレーション、願いの木に短冊を結んできました。

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 さらなる功績の一つにワシントンD.C.の桜があります。1911年(明治44年)に当時の東京市長の尾崎行雄を表にたてて寄贈した12種・3千本の桜 は、高峰博士の発案と寄付によるものでした。同時期に2千百本の桜がニューヨークにも寄贈され、本宅のあったハドソン河岸に今も根づいていることを知る日 本人は少ないことでしょう。
高峰博士は61歳のときに勲四等旭日小綬賞を受賞すると、日本人研究者の育成や国民科学研究所の必要性を訴え2年後に官民合同の理化学研究所を創設しま す。1921年(大正10年)にワシントン平和会議での渋沢栄一を団長とする日本実業界・官界代表団を支援した際の無理が祟り、心臓病が悪化して松楓殿で 療養生活を続けていましたが、翌年、ニューヨークの病院で68歳の生涯を閉じました。

 ビジネス分野においては、世界最古のプラスチックと言われるベークライトを開発者のベークランド博士から託され、当時の三共商店でベークライトの 生産が始まり、現在は住友ベークライトに受け継がれているほか、日米関係が悪化し始めたときに日米共同事業をたちあげることを決意し、地元でアルミ工業を 起こして黒部川の電源開発や鉄道建設にも着手しました。観光景勝地の宇奈月温泉の開祖でもあったのです。

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 これだけの功績を残したにもかかわらず、なぜこれほど知られていないのでしょうか?その理由の一つは高峰博士がサムライの精神を受け継いでいたからでは ないでしょうか。高峰少年が学んだ藩校では孟子や孔子の教えを受けたことでしょう。孔子も孟子も人を治める者の最高の必要条件は仁にあることを強調してい ます。

 君子はまず徳を慎む、徳有ればこれ人有り、人有ればこれ土有り、
土有ればこれ財あり、財有ればこれ用有り、徳は本也、利は末也 (孔子)

不仁にして一国を得るものはいるが、不仁にして、天下を得るもの
はいない(孟子)

多くの(武家の)少年の目標は、富でもなければ知識でもなく、名誉
であった。少年は志を立てて家を出るときは、世にもし名を成さなか
ったならば死んでも帰らぬと誓い、功名心のある彼らの母達はわが子
がもし「故郷に錦を飾る」のでなければ、再び会うことを拒んだ。
少年たちは、恥をまぬがれ、名を立てるためには、どんなに不自由な
暮らしもいとわず、肉体的あるいは精神的な苦痛にも耐えた。少年の
時に得た名誉は、年齢と共に成長していくことを、彼らは知っていた
のである。(『武士道』より)

 若輩者の筆者が主張するのも憚れますが、現代の日本社会は外から与えられる名誉を望むが余り、改革や行動をせず見て見ぬふりをしている人が多いように感 じるものです。道徳教育が見直されていますが、遅きに失した感もあります。現代中国を見ても孔子や孟子の教えに逆行する富裕層たちが幅を利かせています。 こうした社会を見つめている現代の少年たちは何を想うのでしょうか。

 高峰博士の没後、松楓殿は證券格付け会社で知られるムーディーズ・インベストメント社創業者一族がオーナーとなり、アメリカ名門家の手によって守られて きました。第二次世界大戦という厳しい時代を通り抜けて、戦後のオーナーであったオズボーン家の「日本に返したい」との篤志によって60年ぶりに日本側の 手に戻り、2003年よりSho Fu Den, LLC.に受け継がれ、管理・修復が進められています。

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 高峰博士は移築の際に、京都出身の洋画家、牧野克次氏に室内装飾を依頼しましたが、西洋風のダイニングテーブルや椅子などにその影響を見てとるこ とができます。本宅の室内意匠も依頼して6階から成るフロアの1・2階を日本式、その他の階を洋式としたそうです。火災で全て焼失してしまいましたが、京 都高等工芸学校(現京都工芸繊維大学)の初代助教授でもあった牧野氏の貴重な作品が松楓殿には数多く残されています。

 一方、高峰博士の二人の息子はそれぞれの道を歩み、長男は享年43歳で不慮の死を遂げますが、次男は日系2世として第二次世界大戦中の厳しい時代を化学 者として生き、終戦後まもなくこの世を去ります。長男には譲吉3世と娘がおり、再婚した母及び祖母と共にアリゾナに移住しました。譲吉3世はロサンゼルス で開業医とし日々患者と向き合い、献身的で誠実な医療活動で人望を集めているそうです。

 松楓殿の復興をめぐる劇的な展開により、譲吉3世は高峰家の末裔として55年ぶりにニューヨークの墓地を訪ね、松楓殿を再訪し、その復興を願って次のような言葉を掲げています。

 「私は、未来の良き世代のため、人類の幸福を探求する多くの人々が、国と人種
を超えて、世界中から『松楓殿』に集うことを希望します。』
高峰譲吉V世(医学博士)

 現在も約100エーカー(12万坪)の広大な別荘地に松楓殿は佇んでいます。環境マテリアル推進機構も日米友好関係の上に発展を続けておりますが、ビジネスの発展と共に、会員の皆さまといつか松楓殿を訪問する日が来ることを期して本稿を終えたいと思います。