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目に見えない環境汚染時代を生き抜くためにG

 今年も残すところ二カ月となり、短かった秋に別れを告げて冬支度を進めているところですが、会員の皆さまにおかれましては如何お過ごしでしょうか?

今月は京都で記念すべき第三回環境マテリアル推進協議会全国大会が開催予定であり、リフレクティックス社のトカルスキー社長や海洋冒険家で長年の友人でもある白石康次郎氏の講演も予定されており、参加者の皆さまと共にお会いできることを楽しみにしているところです。

白石康次郎氏との出会いは十数年以上前に遡りますが、常に変わらぬ高い志と爽やかな笑顔にいつも勇気づけられております。さまざまな記録やレースに果敢 に挑戦し続け、2006年10月には最も過酷と言われる単独世界一周ヨットレース「5OCEANS」クラスIに日本人としては初めて挑み翌年5月に見事総 合2位でゴールしました。

筆者は同氏が2002年に挑戦した単独世界一周ヨットレース、「アラウンド・アローン」のスタート地点となったニューポートにNY出張中にかけつけたことがあります。

マリーナでレース艇の最終調整をしている同氏を見つけると大勢のサポーターたちに囲まれはにかんだ様子でしたが、数々のスポンサーのエンブレムが並ぶ レーシングジャケットに身を包み颯爽と出航していきました。スタート地点はマリーナからは遠く、どのヨットが白石艇かよく分かりませんでしたが、あっとい う間に水平線上から姿を消していきました。
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海洋レースへのチャレンジにはレース艇をはじめ数億円規模の費用がかかるそうで、節約のため(というより費用がかけられなかったようですが)下田から ニューポートまで自ら回航してきたとのこと。スタート地点に到着するだけでも地球を約半周しており、ハンデを背負っているようにも感じられましたが、翌年 見事完走し、クラスUで総合4位の成績を収められました。

同氏は所属する事務所を通じて全国の講演活動を初め、子どもたちに海の魅力を伝える活動など各方面での啓発活動を精力的に続けておられます。全国大会に参加される会員の皆さまにはユーモア溢れるお話を楽しみにして頂ければと思います。

さて、今回は全国大会が開催される京都にちなみ、1993年、つまり20年前に国立京都国際会館にて開催された国連グローバル・フォーラム総会に参画したときのことを振り返ってみたいと思います。

国連グローバル・フォーラムは筆者が環境問題を追及するきっかけとなった国際会議の一つに挙げられますが、グローバル・フォーラム日本事務所長代行兼プ ロデューサーの川口伸明博士(現知的財産戦略コンサルタント)のアシスタントとして参画し、同氏が担当したグローバル・フォーラム世界科学技術会議・滋賀 1993京都会議科学技術分科会)に参加された世界各国の科学技術者を始めとするVIPアテンドを担当しました。

グローバル・フォーラムの総会前には科学技術、報道人、宗教指導者、芸術家がそれぞれ分科会を行い、総会で採択される予定となっている「国際緑十字憲章」の草案への提言をまとめる作業が課されておりました。

「価値の転換―地球と人類の未来のために」という壮大なテーマで開催された同会議には、総会最終日に設立予定の「国際緑十字」の会長、ミハイル・ゴルバ チョフ氏がソビエト崩壊後初めて来日する機会となりましたが、グローバル・フォーラムの成り立ちにもソビエト連邦最後の最高指導者となった同氏が関わって おり、ペレストロイカを成し遂げた同氏の理念が広く知られる舞台となりました。
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グローバル・フォーラム(The Global Forum of Spiritual and Parliamentary Leaders on Human Survival)は、1985年、国連40周年を機に『地球と人類の存続』をヴィジョンに掲げ創設された国連NGO(非政府組織)で、ニューヨークに本 部を置いていました。

1988年に英国オックスフォード大学、1990年にモスクワ(クレムリン)で世界の政治経済、科学技術、文化芸術、民族宗教の指導者が一堂に会して開 催された二度の国際会議は、1989年に開催されたマルタ会談(米ソ首脳会談)における44年間続いた米ソ冷戦終結宣言を後押しする形となり、極めて高い 評価を得ることになりました。

さらに、1992年の国連環境開発会議(UNCED)では、ブラジル国会との共催で、国会議員による地球サミットを開催するなど、国境を超えた連帯が広がり、第三回目となるグローバル・フォーラム京都会議へと繋がっていきました。

京都会議に先立ち滋賀県野洲町で開催されたグローバル・フォーラム世界科学技術会議には20カ国から第一線で活躍する科学者や技術者が終結し、4日間にわたり熱い議論が交わされました。
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同分科会のコーディネータを務めたプリンストン大学のロバート・ソコロウ教授(当時)を伊丹空港で出迎え、野洲町に向かう車の中で打ち合わせをしたとき のことを先日のことのように思い出しますが、同教授の呼びかけに応じて集結した科学者の中でも印象に残った方々を筆者の所感と共にご紹介したいと思います (肩書は当時のまま)。

グレゴリー・バレンボイム ESCOS世界生物物理学・生態学研究所長( ロシア)
ロシアには最高学術機関のロシア科学アカデミーをはじめとする著名な科学技術機関が数多く存在しています。その一つに挙げられる ESCOS(Ecological Station of Environment Control)のバレンボイム所長にとって日本は憧れの国であり、日本文化に大きな関心をお持ちで念願の初来日となった訳ですが、空港でも銀行でもルー ブルが円に換金できない!と嘆いておられました。

バレンボイム所長は地球生態系についての様々な情報を収集し、文明システムが生態系システムや地球生命圏にどのような影響を与えているのかを調べてお り、地球レベルで情報資源を共有し活用していくことを訴えられました。筆者はその後もロシア人科学者たちと接することになりますが、東西冷戦時代に漠然と 想像していた冷淡な国民像は少なくとも同氏によって払しょくされたと言えましょう。

リン・デイヴィス ビショップ・ミュージアム・アーカイヴズ(ハワイ)会長(米国)
ハワイが1900年にアメリカ合衆国の50番目の州として登録される前に100年にわたって存続していたハワイ王国や先住民のポリネシアの歴史や文化、伝統を受け継ぐ代表的な博物館であり、カメハメハ王家最後の王女の夫が設立した古い歴史を有しています。

彼女は同じ環太平洋地域に住む民族として日本人をとらえ、野洲町にある銅鐸博物館の訪問の際も大変感激されていました。大和朝廷以前の日本の伝統を垣間見ることができ、ハワイで今も受け継がれているハワイ先住民の伝統や文化の継承の重要性を再認識されたそうです。
ハンス・ピーター・デュール マックス・プランク研究所常務理事(ドイツ)
デュール博士はGCN(Global Challenges Network)という行動する科学者のネットワークづくりをされており、「科学者は研究しているだけでは意味がない。行動する科学者が必要なのだ!」と 熱く語られた言葉通り、分科会においてもアクティヴに活動されておりました。東日本大震災後に偶然入手した海外の科学者を中心とした連名による日本政府に 対する陳情書の中に同氏やグローバル・フォーラムの事務局長の名前を発見したときには、「さすがデュール博士!」と感激したものです。海外の最高峰の研究 所の科学者たちが福島や日本、ひいては地球の未来のことを真剣に考え行動していることを忘れてはなりません。

アルフレッド王子 ウィーン未来科学アカデミー(オーストリア)
アルフレッド王子はリヒテンシュタイン公国の王子であり、ゴルバチョフ元大統領とは大変親しい間柄でしたが、ウィーン未来科学アカデミーという研究機関 を率いられ、東北大学総長であった西澤潤一博士(当時)とも親交を持たれ、前年にも都内でシンポジウムを開催され、筆者も参画していたため半年ぶりの再会 となりました。

アルフレッド侯は、現代の文明を「持続可能な文明のモデル」でもないし、「地球レベルで適用可能なモデル」でもないと断じられました。一方で先住民の文 化は各地域で数千年、数万年にもわたって育まれた調和のとれた形であり地球との共存共栄をうまく計っているものとし、今後の方向性として先住民族の代表者 も含めた形で地球環境の問題に対する意思決定をすべきであり、七世代先の人々のことまで考えていかなければならないと提言されていたことが印象に残ってい ます。
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さらに、エネルギーや資源を求めて先住民の居住地を奪い去ることは地球の破滅につながっていくだけでなく、聖地を奪い去ってしまうことになると警鐘を鳴 らされました。世界中でウランが存在している場所は先住民族の聖地とされている場所が多く存在しています。また、これまでに行われている2000回を超す 核実験のほとんどがそうした聖地で行われてきており、最終処分場とされていることを知る人は多くありません。

ロバート・ソコロウ プリンストン大学エネルギー・環境学部長(米国)
グローバル・フォーラム本部科学委員会コーディネータ
ソコロウ教授は1990年にモスクワで開催されたグローバル・フォーラムにてリーダー的役割を担っていた元米国副大統領アルバート・ゴア氏と出会い、グローバル・フォーラムでの体験が同氏の著書『地球の掟』でまとめられていることを明かされました。

 ソコロウ教授が掲げた二つの問題提起は現在の私たちにも大きな警鐘となって響いてくるものです。一つ目は「小さな惑星の上で、地球の上で、いかに 人間が公平にそして幸福に暮らすことができるのか」、二つ目には「人間は、人間の問題を明確にするために、どうすれば科学の偉大な可能性を生かしきること ができるのか、しかもその際、科学では解決できない重要な人間的問題もあるのだということを忘れてはならない」ということでした。

時代は正に冷戦終結直後にあり、米ソが所有する核兵器が実際に使われるのではないかという恐怖や抑止力によってバランスが保たれていた時代でしたが、ソコロウ教授がパネルディスカッションにおいて軍需から民需への転用を科学者に訴えられたことが印象に残っております。

ソコロウ教授はエネルギー問題の専門であり、プルトニウムや核融合の研究における重鎮でもあり、核の問題については大きな懸念を抱いておられました。現代の日本にとっても重要なポイントを含んでおりますので、少し詳しくお伝えしたいと思います。

1977年のカーター政権時代にアメリカは一つの結論をだし、原子炉の数を限定していくことやプルトニウムの商業利用はやめることになりました。

その時点で日本、英国、フランスはプルトニウムを核燃料から取り出そうとしており、商業利用の可能性を追及して核燃料サイクルに巨額の投資を続けていく ことになります。最も懸念されることは天災などによる事故や輸送時に起こりうる放射能汚染、テロリストの標的になるかもしれないというリスクでした。

ソコロウ教授は京都で改めて「日本はプルトニウムの商業利用を本当に欲しているのであろうか?」と問い始められたそうです。核エネルギーは必要かもしれ ないけれど、それはプルトニウムではないのではないかと考えられ、分科会において、日本は六ヶ所村の計画、プルトニウムの増殖炉、こうした計画はキャンセ ルすることができると訴えられました。

それには大きな政治的な決断が必要であり、これまでの投資が無駄にはなるかもしれないけれども、合衆国が70年代にプルトニウムの民間利用は不要として実行したように決定をしてくださることができれば世界はもっと安全になってくる、と。

当時のグローバル・フォーラムの分科会には地元滋賀県ご出身の元首相の宇野宗佑氏(当時)も参加されて祝辞を述べられておりましたが、環境政策に力をいれておられた元首相の耳にはどのように響いておられたのでしょうか。

西澤潤一 東北大学総長 
半導体の父であり、日本を代表する科学者である西澤潤一総長(当時)がグローバル・フォーラムに日本人科学者を代表して参加され、大変重要な内容を含む基調講演に加え、分科会の総括をされました。

 西澤先生の講演に筆者も深く感銘し、環境問題の解決のための国際間の技術移転に長く携わることになったものですが、科学者や発明家の中にも自我が 強く美辞麗句を並べる裏側で己の利益ばかり考える人間が数多く存在することも認識しております。そうした中にあって、真摯に地球や人類の未来のことを切実 に訴えられた西澤先生の言葉には言霊(ことだま)が宿っており、科学者チームが一体となって京都で行われる総会へと向かうことができたのだと思います。

西澤先生は子どもの頃に大学から父親が持ち帰られた工学雑誌を目にされ、工学の『工』という字の一番上の横棒は、『天の与えてくれた自然現象』とあり、 下の横棒は、『地の上の人と社会である』とあり、天の与えてくれた自然現象を有効に利用して地の上の人と社会に幸福をもたらすことが『工』であると書かれ ていたことを時々思い出されるというエピソードを紹介されました。

続けて炭酸ガスの濃度と排出量の推移に関して現在のペースで何もせずにいくと200年〜300年位で、大気中の炭酸ガスが致死量に達すると過去のデータを示されながら説明され、浪費文化を捨てて次の新しい文化を創造すべき大事な時期にきていると訴えられました。

 一人あたりのエネルギー消費量の増加と人口増加をふまえ、人間を安全な炭酸ガスの量の中で生活して頂けるようにすることが科学技術者の責任と述べ られましたが、1993年当時で55億の人口が昨年は70億人を超えていることを考えてみても、当時西澤先生が訴えられた具体的な解決策の可能性をここで もう一度見直すときにきていると考えます。

 その内容とは、西澤先生が23歳のとき、つまり昭和25年に考えられたアイデアに基づくもので、直流送電を生かすことができないか、ということで す。そのアイデアから西澤先生は半導体デバイスを発明された訳ですが、それによって効率よく直流が交流に直る技術を使えば1万キロメートル向こうから水力 など自然エネルギーによる電力を送ることができるようになり、石炭や石油などの化石燃料を使う発電所は止められるのだ、と。後日完成された直流を交流に直 す技術も変圧器もエネルギー損失は1%以下となるため、全体としてはわずかな損失で、水力発電所で発電をして各家庭に電力を送れる可能性を訴えられたので す。

 ともすれば、原子力マフィアに抹殺されてしまうようなお話でしたが、理系ではない文系の筆者が伺っていても分かりやすいお話でした。当時からさま ざまな検証や議論、さらなる開発が進んでいることを鑑みれば、西澤先生が唱えられた技術利用は進んでいて然るべきものですが、それが進まなかった理由を検 証し、当時『我々は大変急がなければ間に合わない』と西澤先生が訴えられた意味を肝に銘じたいと思います。

 最後に、西澤先生が分科会のパネルディスカッションにおいて述べられたご意見をご紹介させて頂き20年前に滋賀と京都で開催されたグローバル・フォーラムの振りかえりとさせて頂きます。

 「原子力発電の例をとりましても、原子炉を運転する結果生じる放射性廃棄物が地球にたまってきております。アメリカやフランスでは、すでに建設計 画を放棄していますが、日本だけが続けております。本来であれば、どのような形で最終的に処分するのかということまで完璧に研究し尽くしてから、原子炉の 建設計画に入るべきであるとわたくしは思います。」

 「現在地球上に存在する様々な問題を、科学技術でなるべく吸収していきたいと思います。文明の危機における様々な人間的ストレスを、世界中の人々 にかけたくありません。それでも科学技術だけでは追いつかないかもしれません。その時には、様々な分野の英知を結集して、対処していきたい。そして科学技 術者は、その能力、可能性を極限まで出し尽くさなくてはならないのです。」

以上